ひかげでダンス

物書きをお仕事にしたい人。練習中。

継続は力なり

私は割と多趣味です。読書とか、編み物とか、映画を観るのも好きだし、美術館に行くのも好き。さらに挑戦してみたいことも多い。英語をもう少し話せるようになりたいし、羊毛フェルトやレジンなんかは一度もやったことないからやってみたい、なんならそういう、デザインやカラーコーディネートの勉強も始めてみたい。だけど日中は仕事、帰ってきて洗濯に料理にお風呂とくれば、もう1日はおしまい。なにも手に付いてない気がしてならない。全部中途半端な気がしてならない。


そんなときにいつも思うのが、タイトルの「継続は力なり」ということ。

学生のころまで、「継続」とは、「毎日やること」だと理解していたけれど、今はそうではない!と、胸を張って宣言できる。「継続」とは、「想い続けること」だと思っている。


例えば、昨日、約1ヶ月ぶりに筋トレをした。来年の11月にウエディングドレスを着て写真を撮るために、目下肉体改造中の私。しかしながらこの年末年始で新婚旅行に出発し、現地でなにもしなかったのだ!!なにも、しなかったのだ!!!

そんなわけで昨日、なんとか頑張って筋トレしていて、ハッと気付く。

全然ついていけてる!

ちゃんとやれる!

1ヶ月以上(ウォーキング以外の)運動をしていなかった私でも、12月につけた筋肉はそこまで衰えていなかったのです。やったことは体にきちんと蓄積されて、ちゃんと実になっていた。

もっとしっかり自覚したのは、趣味の編み物でのこと。

私は小学生時代に手芸部に所属して、ガラクタ生産をしていた。そんな中で鉤針の編み物に出会い、ぬいぐるみを作ろうと奮闘するものの、どうしても編み方がわからない。当時は動画もなく、本に載っている平板な編み図や編み方指南がすべて。母も編み物をする人ではなかったので、編み方指南のページを見ても全くわからず…。そうこうしているうちに「編み物はださい」という価値観に身を置くこととなり、それ以降編み物をすることはなくなった。実家には当時の鉤針が置いてあるはずだが、もうわからない。捨ててあるような気がする。

そんな編み物を、大学時代に再開した。実家暮らしでサークルにも馴染めなかった私には時間がありっっったけ余っていたが、バイトをするのもしんどくてヤダ。「ローコストで楽しめるなにかがないかな」と考えて思い至ったのが編み物だった。

「一回作ったのをほどいちゃえば毛玉何個かで一生遊べるじゃん!」

というバカな理由だった。

だけどドンドンはまっていく。理系に進学して図面の書き方なんかも勉強したせいか、普通に編み図も編み方も理解できた。セールでまとめ買いしてポンチョなんかに挑戦したり、アラン模様にハマって猛烈にクロス編みした。先日2ヶ月でカーディガンを編み終えて、本当に痛感した。「こんなに長いブランクがあっても、好きなものは好きだし、スキルとして体が覚えてるんだな」と。


「継続」って、必ずしも毎日やらなくていいんだと、今は素直に思っています。「好きなもの」としてちょっとでも想っていれば、それはすでに「継続」であると思っています。

筋トレだって、「やらなきゃやらなきゃ」と思ってるだけで継続です。その後本当にやるかどうかで、成果の出るタイミングが変わってくるだけ。だから1週間あいだが空いたって、どうってことはありません。今週は編み物、来週は勉強。でも、想っていれば、ぜーんぶ毎日継続できています。

継続できていれば、これからも続けていけば、どこかではきっと大きな花になると信じています。それがばあさんになった時だとしても。いつか、そういう日を夢見て!

「最後まで見れる動画」とは?

最近夫がキャンプ動画にハマってYouTubeでずっと見ている。5万再生超えてくるとすごくて、10万行きだすと大人気なんだそうな。ホントかな?


見ていると確かに、数千再生くらいの人のはなんかビミョーにつまんない。かるーく分析してみたら、再生回数の多い動画には共通点があった。

※あくまでもキャンプ動画を何本かしか見てない個人の感想


・とにかくどこかしらおしゃれ

今手元にあるものでできそうなキャンプ動画は「なんかもう見なくていいや」ってなる。逆にいいものを使ったり、そういうのがおしゃれに飾ってあったりすると「こんな風にしてみたいなー憧れるー」ってなって最後まで見れる。

・しゃべってくれてる、人が写ってて動いてる

個人的に字幕動画はあまり好きではない。すぐ飽きちゃう。景色だけ見てるのもしんどいし。しゃべってくれてて、なおかつ体が見えてると動きがあってなんか安心する。ちなみに顔が写ってると顔で判断してしまうので個人的には苦手(顔で判断する自分に自己嫌悪するので)。、

・ポリシーがあって、突き抜けてる

ポリシー強くて突き抜けた事してると「なんだこのひとは!すごいことしてるぞ!」ってなって全部見る。どんな編集だろうがもう本人の新規性?希少性?で全部見れちゃう。突き抜けてる人はほんとすごい。

・適度にツッコミどころがある

なんかボケボケ(料理の手順がぐちゃぐちゃ)とか、逆に本格的すぎてヤバイ(急に木を切りだして、気付いたらテーブルになってる)とか、ツッコミどころがあるとツッコミながら見てしまう…術中にハマってると思いながらも最後まで見てしまう。

・動画に流れがある

キャンプ場まで車で行ってー、テントたててー、お昼食べてー、まったりしたりどっか観光いったりしてー、夕飯準備してー(みんなやたら気合いはいってる)、みたいな流れがある。悪い例だと、とある動画ではお昼食べた後急に夜ごはんになってびっくりした。私はあなたの食事風景を見にきたんじゃない!


分析しながら思っていたのは「いかに最後まで見せるか」が大事なんだなーというところ。テント設営後の印象でもう見たいか見たくないか決まってる。映像が美しいのはいいんだけど、ずーっと美しい映像だけだと飽きちゃう。最初から最後までずーっと何か起こってて気を引けたらいいけど、動画を流れで見せるには作者でも面白くないと思うような部分も使わなきゃならない。そういう部分をどう見せていくか。


見たことないけど水曜どうでしょうとかは、面白くない、でも流れ上必要な映像を編集の力で引っ張り上げてるようなイメージがある。月曜から夜更かしはよく見てるんだけど、インタビューなんかを数打って面白いの集めてきてる泥臭いかんじ。イッテQもよく見る、あれは映像美しい系だけどうまくイベント作ってうまく編集してるよね。映像系といえば世界遺産とか好きだけど、あれは現地のリポートなんかを挟みながら情報量多くして、映像だけでも飽きないようにしてる(それでも30分くらいが限界かも。スペシャルのときはちゃんとストーリーのある内容をしてる)


今日のところはさくっとまとめてみたけど、いつかもっと深掘りしてみたいテーマですね。個人的には創作に、仕事的にはパワポ作成とかに有益なのでは。

思った以上にじかんかかった…


おなかへった

平日は書くことがないがち(日本語)なのですが、書くことに集中するためにはなんてことない日もなんか書く。


日曜日にバーベキューをしたため、胃腸が荒れ放題です。ずっと胃もたれ。ずっと張ってる。

で、あまりにも、あまりにも長く辛いので、今日は夕飯を抜きました。今!猛烈におなかすいてます。寝れる(日本語)のかなこれ…

連休前の気合いの入れ方

あと一週間で連休です。みんなダラリとしてる。


楽しみなことがあるとダラリとしがちですよね。集中力が欠けてくる。もう自分が連休に入った気持ちになっていて、全然身が入らない。でも連休まではもう少し時間があって、気持ちの整理をしながら業務に励まなくてはならない。すごく理不尽に思える。

そんな私なので、今日はずっと「遊びの仕事」をしていた。具体的には自分の趣味のパワポを作ること。どうでもいいけど楽しい。あんま必要ないけどやっといて損はない。楽しいのでずっと集中できていて、時間を忘れた。

そうして一度集中モードに入ることができれば、次の日も集中できる。一旦ダラリモードを忘れると、今度はダラリモードにするのがだるくなるのだ。わかる?


無理しない、工夫する。

これが悪魔の知恵です。


障害は自分の中にもある、ということ

テーマに入る前に、体験を書いています。興味のない方は「※」マークがでるまでスクロールして、※マークの下から読んでください。


幼稚園、小学校、中学校と、ずっと仲良くしていた女の子がいます。その子は生まれつき心臓の部屋が2つしかなく、運動ができない子でした。走ったりしちゃダメなの。体育もいつも見学とか、たしか見学どころか教室で他の勉強とかもしていた気がします。でも普通に遊んでいました。お互い絵を描くのが好きだったので、漫画を作って読みあったりしていました。

中学校から高校までいちばん仲良くしていた子は、あるときふっと「私リスカしてるんだ」と言ってゆっくり頭をもたげました。

当時64のゼルダの伝説を、彼女がコントローラーを握りしめて敵をなぎ倒し、私はそれをじっと見ていて、それがものすごく楽しかったのです。同じアーティストを好きになって、音楽番組を見てキャーキャー言って。テスト前には一緒に勉強して。そんな楽しい中でも、どこかで彼女なりに生き辛さを感じていたのでしょう。

詳細は覚えていませんが、私のことばに頭を上げたシーンは今でも思い出せます。

「そう思ってる人はたくさんいるみたいだよ、ひとりじゃないよ、異常なことでもないよ。何か困ったことがあったらいつでもくるから言って。」

そのことばで、なんだか彼女は救われたようでした。パターンによってはこう言ってはいけないのかもしれないけれど、その時私が言ったことばはその時考えうる中でいちばん彼女にかけたいことばだったし、彼女もそういうことを聞いてほっとしたようでした。



私は持病があって、毎日薬を飲んでいます。その副作用で、時々感情のコントロールが効かなくなります。朝起きて、なんでもないのに涙が出て止まらないとか、無性にムシャクシャするとか。

先日、およそ一週間ほど、感情のコントロールが効かなくなって連日会社をお休みしました。こんな些細な不調で休暇なんか取りたくないのに。悔しくてたまらなくなりました。

そのとき、ハッとしたんです。

例えば、生まれつき目の見えない人は、好きで目が見えないわけではありません。それが標準装備なのです。望んでもいない不自由を、自分ではどうすることもできない不自由を、常に、体に持っているのです。

このときの私も、そういう観点で見れば障害を持っていました。「感情がコントロールできない」という障害を。時間が経てば治るけれど、そのとき私は確かに障害を持っていました。

例えば「怒りっぽい」という性格は、障害になるのでしょうか。「おとなしい」というのはどうでしょうか。生まれ持っていて簡単には変えられない性格という、人の一部分は、障害と言わないのでしょうか。今時お堅い上司なんかが「こんなのパワハラじゃないよ」と飲み会に行くことを強要することも、下手したら障害なのではないでしょうか。クレームを言わずにおけない人は?


大なり小なりみんな、障害を負って生きているのではないか、と、泣きそうになりながら考えていました。「障害」ということばを使うとき「自分はそのカテゴリーには入らない」と思っていませんか。地震や台風が来ても自分だけは助かると思うように。アクセルとブレーキの踏み間違え事故をテレビでぼんやり見ている時のように。

あなたは、もしかしたら、とんでもない障害を抱えているかもしれないのに。

私は、障害と向き合って前向きに生きている人はいつだって美しいと思います。単に同情しているわけではなくて、弱さを受け入れ、克服しようとしているから。また、受け入れて生活している人も魅力的です。そういうことができる人は本当に少数です。五体満足でのんべんだらりと生きている人の中に、こういうことができる人が何人いるでしょう。逆に障害を持って生まれて、それに向き合えないまま生きている人だってたくさんいるのではないかという気がします。実際に会ったことはないけれど。


あなたも何か障害を持っているのでしょう。向き合っていますか。受け入れていますか。どんなに小さな命にも、そういう輝きがあるといい。そういう輝きを見出せるといい。